メインイメージ 推奨サイズW800×280px

因縁の再会



ロンフィ社の筆頭株主となっていた、80歳になる金軍宙は
長島恭平が2061(20歳)になったの2061年のある日、・・

「私はもうじきなくなる」
「私がなくなったあと、来世にまた長島恭平こと野永恭一にまた仕えたい」と言う。

「お前は、野永恭一社長が作ったロンフィ社に入社しなさい」と言う。
それから今までの話を詳しく長島恭平に話すのだった。

そして、金軍宙は、死んだ野永恭一の息子である野永恭介と重要な約束をする。
金軍宙は長島恭平にロンフィ社の所有株を無償ですべて譲渡すること。
次に、長島恭平が大学卒業後はロンフィ社に入社すること、
そして将来社長にさせることを二人は約束する。

そして死期を感じた金軍宙は、長島恭平と長島靖雄夫婦の孫の日本人の友人、山本秀夫と弁護士の作田光一を呼び、
野永恭一としたと同じように、長島恭平と、山本秀夫に金軍宙自身の生まれ変わりの話をする。

金軍宙が死ぬと、日本で捨て子(すてご)、棄児(きじ)で生まれると言う。
金軍宙の死後10月10日に出産し、捨て子(すてご)、棄児(きじ)となっている赤ちゃんを探してくれと言う。
そして山本秀夫が引き取り、長島恭平が世話をして育ててくれと言う。
もし、捨て子、棄児がなければ諦める・・・・と言う。

長島恭平、山本秀夫と作田光一は、言葉なくただただ聞いておくにとどめて、
質問をするものは誰もいなかった。

それで、金軍宙は再度繰り返して話した。 僕が死ぬと、日本で捨て子(すてご)、棄児(きじ)で生まれると言う。
金軍宙の死後10月10日に出産し、捨て子(すてご)、棄児(きじ)となっている赤ちゃんを探してくれと言う。
そして山本秀夫が引き取り、長島恭平が世話をして育ててくれと言う。
もし、捨て子、棄児がなければ諦める・・・・と言う。


それから金軍宙は、毎日、パソコンに向かって資料をつくる日々が続いた。
紙の資料は、丹念にバインダーにファイルして行った。

そして、2040年の12月のはじめ、長島恭平と、山本秀夫と弁護士の作田光一を自宅に呼んだ。
黒いかばんを取り出し、
「これは、死んだ野永恭一社長が残した資料です」と言って、長島恭平に渡す。
それから、金軍宙が作成した、USBメモリーとバインダーの入ったトランクを開け、
これは僕が作った資料です」と言ってトランクを締め長島恭平に渡す。
「これは僕の遺書です」と言って、弁護士の作田光一渡して、
「先生、不備があれば早急に修正しなければなりませんので見て下さい」と言う。

そして、金軍宙は、自分の死後の処理、つまり生まれ代わりの処理を、
長島恭平、山本秀夫と弁護士の作田光一に告げるのだった。
そして言う、
「今、お渡しした資料は、私が生まれ変わって、僕が20歳になったら見せてください。」
「長島恭平と生まれ変わりの僕が一緒に見ます。それまでは空けないでください。」
「山本秀夫さん、生まれ変わったら、貴方の子供として育ててください。
養育費については、弁護士の作田光一先生におあずけしておきます。
それから、大学を卒業したら、ロンフィ社に入社させてください。
これはね、社長になる長島恭平にも言っておきます。お願いしますよ。」

一同は、狐に包まれたか、痴呆老人の戯言を聞いているのか、
ただただ聞いておくのみだった。

数日後、弁護士の作田光一が、遺言の確認のため金軍宙を尋ねたのだった。

それで2062年の早春、金軍宙が81歳のある日、
病院で家族や長島恭平と、山本秀夫に見守られて老衰で死去する。


2062年の早春、金軍宙がが81歳のある日、
金軍宙は病院で家族と長島恭平、山本秀夫と弁護士の作田光一に見守られて老衰がもとの肺炎で死去する。
穏やかな顔ですが、旅行にでも行くようなウキウキした死に顔だったと山本秀夫は後に語ります。

弁護士の作田光一は、日本中の病院に手紙に手書きを出します。
11月30日ごろ生まれた男児の、捨て子(すてご)、棄児(きじ)が貴病院で保護されたら、
弁護士の作田光一まで連絡いただきたいとの趣旨で発送した。
そして、各地の県警にも挨拶に廻った。
どこも怪訝な顔で対応されたが、弁護士の話なので一応話は聞いてくれた。

誰がみても弁護士とは思えない奇妙な行動だったのです。
しかし、弁護士の作田光一にしてみれば、これも仕事だったのです。
「ほんとにそうなればどうなるのかな」
何度も意味のない自問自答をするのだった。

そうして運命の10月10日後の2041年の年11月30日が来るのです。

11月30日の明け方、同じ病院の駐車場で、男の赤ちゃんが棄てられているのを、
守衛が見つけて看護婦に連絡すると、すぐに措置がされ、元気になった赤ちゃんは新生児室で保護されたのです。
警察も駆けつけたが、院長がおかしな弁護士の話を思い出して、
院長は何が起きたのかわからないほど動転していました。
警察官から連絡を受けた県警本部も、狐に包まれたような騒ぎです。
「なんか、20年前も、こんな話がありましたわなあ」と老刑事がつぶやきます。
弁護士の作田光一からは、事前に届け出るのでマスコミには事務的に発表するだけにして欲しいと、
釘をさされているので、事務的に対応します。
そして院長は弁護士の作田光一へ連絡したのです。

弁護士の作田光一は病院から連絡を受けると、まさかと思いました。
血の気が引くようでした。
偶然はあります。
たまたまもあります。
たまたま予定の日に、男児の捨て子、棄児が病院で保護されただけです。
そう思って、冷静に、長島恭平へ連絡をしたのです。

長島恭平は、気になるので明け方から電話を待っていました。
ベルが鳴ったのは10時を過ぎていました。
弁護士の作田光一の声を聞くと、
「生まれましたね」と弁護士作田光一の報告を聞くまでもなく念を押したのです。
弁護士山田陽一は「はい、生まれました」とオドオドそて言います。

長島恭平は、
「どこですか、どこにいるのですか」
もどかしげに、弁護士山田陽一に声を荒らげて督促します。
そう言われると、弁護士山田陽一も声がでて来ません。

「先生、先生」と長島恭平の声が受話器から荒々しく響いて来ます。
気を取り戻した、弁護士山田陽一はようやく冷静に、
報告の詳細を長島恭平に伝えるのでした。


そして、今度は冷静に、山本秀夫へ連絡をしたのです。

山本秀夫は、留守だったので、冷静に留守番電話にメッセージを録音しました。
「私、弁護士の山田陽一です。」
「金軍宙さんの件ですが、今朝、明け方、赤子が見つかりました」
「病院は金軍宙さんがお亡くなりになった病院です」
「私もいまから駆けつけますが、山本秀夫さんが引受人ですので至急病院までいらしてください。
なお、長島恭平さんには連絡済です
以上です。」


長島恭平は急いで駆けつけ、金軍宙の生まれ変わりと対面した。
本当なんだろうか。
自分もこうやって生まれて、おじいちゃんの金軍宙が対面したのでありうか。
ふしぎだなあ。
これが輪廻転生と言うのか。
長島恭平は、神秘な世界を感じて、いっぱいで涙を浮かべるのだった。


山本秀夫夫婦が遅れて駆けつけた。
山本秀夫夫婦は怖いものを見るような顔つきだった。
奥さんの方は関り合いになりたくない。そんな感じだったが、
赤子の顔を見ると、身内の兄弟が産んだ赤子のように、
満面笑みを浮かべて、それはそれは嬉しそうでした。
それに引き換え、山本秀夫はまだ信じられないような怪訝な顔であった。

最後に、弁護士の山田陽一があらわれ、病院、警察、マスコミの対応に追われた。

男児の名前は、長島恭平、山本秀夫と弁護士の作田光一が相談して、
信じたい、優秀な子供に育って欲しいとの思いで「信秀」とした。
山本信秀の誕生だった。
1周間もすると、山本秀夫夫婦に引き取られた。

山本秀夫夫婦は長島恭平宅近くに住んで、山本秀夫夫婦と長島恭平の育児が始まった。

山本信秀が高校に入る時に、遺言どおり、出生の秘密を長島恭平、山本秀夫と弁護士の山田陽一は時間をかけて説明したが、
生まれ変わりについては、山本信秀は冗談だろうと聞き流すほどの大人に成長していた。
話を聞く前に自分が山本秀夫夫婦の実子でないことはうすうす知っていたので驚かなかったし、
山本信秀自身が山本秀夫夫婦を実の父母以上に大切に思っていたので心配することはなかった。
また、長島恭平夫婦についても身内以上の親しみを覚えていたので、
この事が、後になっても、全く障害になることはなく、
血のつながった関係以上のつながりを感じる家族だった。
ただ、弁護士の作田光一については、全くの他人としてしか認識できなかった。
金軍宙については、山本秀夫夫婦と長島恭平の入れ込みを感じて、
それだけの素晴らしい男だんだと感じて、人一倍興味を感じていた。
そういう感じもあり、自分が金軍宙の生まれ変わりと言う山本秀夫夫婦と長島恭平の説明を、
信じはしないが、誇らしく思う気持ちが湧いていた。




山本信秀が大学入ると、長島恭平は仏教の講義を
山本信秀に始めたのです。

長島恭平のした仏教の講義は仏教の起源ともいうものでした。
仏教を最初から学んで欲しかったのです
大乗仏教をですね。
大情仏教を学ぶには原始仏教から学ぶことです。

仏教は、インドで発生した宗教です
日本では、仏教の教えを受けた夫婦、恋人どおしは「生まれ変わっても、あなたと一緒になりたい!」と言います。
何かぐっと心にきますね!

これは仏教の「輪廻転生」を前提にした「ウパニシャド哲学」ですが、本当はそんなに甘い話ではありません。
絶対生まれ変わりたくなんか無いのが当時のインド思想です。
仏教を理解するには、「ウパニシャド哲学」をまず理解することが必要です。
そのためには当時のインドの思想を振り返って見る必要があります。

その前に中国での、儒教思想について
儒教の儒(じゅ)の起源については冠婚葬祭、特に葬送儀礼を専門とした集団であるといわれています。
そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)が関係しているようです。

紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムが儒の母体と考えられています。
そのシャーマニズムから祖先崇拝(祖先神・ご先祖さま)の要素を取り出して、礼教化し、
仁愛の理念をもって、当時、身分制度の秩序が崩壊するなどの社会混乱によって、
解体していた古代社会の、道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子である言われています。

春秋時代(紀元前770年 - 紀元前403年)、孔子(紀元前551年‐紀元前479年)は
実力主義が横行し身分制度の秩序が解体されつつあった、周時代の終わりごろ、魯国に生まれ、
周時代の初めの秩序への復古を理想として、身分制度の秩序の再編と仁道による政治を掲げた。

孔子の弟子たちは、孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代、儒家となって諸子百家の一家を形成した。
孔子と弟子たちの語録は、四書五経のひとつである『論語』にまとめられています。

日本では、『論語』を初めとする四書五経の教えが「道徳」になっています。
儒教と言うと中国政府は、「儒教」ではない、「儒学だ」。
儒学は中国の文化だと言いますが、ここで「儒教」とは「儒学」の「教え」ですから「儒教」です。

ついでに「仏教」ですが「仏陀」の「教え」ですから「仏教」になります。
仏陀が言わない事は偽教です。

したがって、お葬式とか、お盆とか、ご先祖さまとか、年回忌とかは、「仏教」ではありません。
したがって、ここの講義を学んでも何の役にも立ちません。

お葬式とか、お盆とか、ご先祖さまとか、年回忌とかを学ぶには「儒学」つまり、「儒教」を学んでください。
まったく論理が違います。

では何故、今日、日本の寺院では「ご先祖さま」を教えるかは、
「日本史」を勉強して下さい。
室町時代の京都南山文化、つまり儒学僧という言い方や禅僧が登場します。 江戸時代はキリスト教を絶滅させるために「檀家制度」ができます。
江戸幕府が個人の尊重や平等を教える仏教を普及させるはずがありません。
一般家庭にズカズカ上がり込むために、偽教を作らせてお盆の行事や彼岸、葬式、年回忌を、仏教の寺でさせるのです。
これが日本仏教と言われますが、ここで講義するのは、全く違います。

あとでわかると思いますが、仏教の書は哲学書なんです。
これを理解していただければ、この輪廻の里の結末が理解できると思います。


本題のインドに戻ります。
インドでは、当時のバラモン教は祭式中心の宗教で、
儀式のやり方は秘伝としてバラモンの身分の者だけに伝えられていきます。
しかしバラモン者の中から、儀式だけでは満足しない者達が出てきて、
密林の奥深くに、こもって、真理の探究をするようになり、いろんな難行苦行をしながら、
修行者たちの中で、徐々に作られていった思想が、「ウパニシャド哲学」と言われます。

このあたりは仏教が滅んで密教が起きると、こうした難行や儀式が復活します。
オウム真理教が、真似したことをやりましたよね。
密教の儀式です。

ウパニシャッドは、サンスクリットで書かれた一連の書物で、
一般には奥義書と訳され、約200以上ある書物の総称で、
このウパニシャド哲学が後のインド思想に大きな影響を与えることになります。

ウパニシャド哲学では、まずは人間の生死について、「輪廻転生」(りんねてんしょう)と考えます。
全ての生き物は生と死を永遠に繰り返すと考えます。
死んだら、またどこかで、なにか生命のある者に、生まれ変わるのです。(人間とは限りません)

生きて、そして、死んで、また、生まれ変わる。永遠に回転しつづける車輪みたいなものです。
ですから、ウパニシャド哲学発祥の地である現在のインドの国旗にも、
輪廻転生を象徴する意味で、国旗の中央に車輪(ホイール)が描かれています。

インド人は、死んで、そして又、生まれてくることを、苦と考えました。
(死にたくない気持ちも苦ですから)死ぬことが、苦しみなのは理解できますが、
インド人は(勿論、生まれてくる、赤ちゃんの誕生は喜びますよ!)
でも、自分が、再び生まれること、生きていることも苦しみと考えました。

なぜなら、生きて行くうえで、
飢饉、疫病、戦乱、天災など、あらゆる災難・不幸が人にはついてまわるので、
生きることは必ず苦痛を伴っているのです。
現代でも、世界中で、私の人生は、すごくつらい人生と思っている人は、沢山いると思います。

死んだ後、再び生まれてくる時、人間とは限りません。
答は、生きている間にどんな 行為(行い) をしたかで決まると考えます。
生きているという事は、何かの 行為 をしているわけで、その行為を「業(ごう)」といいます。

どんな業を積んだかによって、次の生が決定されます。
悪い業を積めば、蛇や虫けらなど、考えたくもないものに、生まれるかもしれない。
良い業を積めば、人間とか、つまり良い生き物に生まれ変われるのです。
でも、でも、たとえ、良い生き物、つまり幸せそうな人間に生まれ変わったとしても、
人生は苦なので、一番良いことは、二度と生まれ変わらないことです。
クルクル廻る、輪廻の輪から抜け出すこと、これが最高の望み・願いと考えるのです。
輪廻の輪から抜け出すことを「解脱(げだつ)」といいます。
ここまでで、「輪廻転生」と「業」、そして「解脱」を理解してください!

次に難しいですが、宇宙の真理です。
ウパニシャド哲学では、宇宙には真理・根本原理が存在すると考えます。
サンスクリットの「力」を意味する単語からきて、これを「ブラフマン」 (Brahman)といいます。
これを中国で漢訳したのが「梵(ぼん)」という漢字です。

「梵(ぼん)」は物質的宇宙の全体の背後にあるため、
理性により提供される物だけを使ってそれを説明しようとすると、人間の精神なんて、小さなものです。
梵(ブラフマン)は感覚を超えており、精神を超えており、
知恵と知性を超えており、想像を超えているのです。

修行者たちは、当然この真理「梵(ぼん)」を自分のものにしたいと思いました。
宇宙の根本真理「梵(ぼん)」を掴もう(つかもう)と、人である修行者は探すのですが、
簡単には探せません。探すのではなく、発想を変えて考えるのです!
冷静に考え、「人間の私」も宇宙の中の一部と考えるのです。
宇宙に根本原理があるならば、「人間の私」も宇宙の一部ですから、
当然、「人間の私」の中にも宇宙の根本原理が宿っているに違いないのです。

「人間の私」の中の真理を「アートマン」(atman、真我)といいます。
仏教書では「個人の根本原理」と書いています。
漢訳では「我(が)」と言います。

「梵(ぼん)」 は アートマン(atman、真我) と同一であるとし
私の中に「我」があって、それが「梵」と究極的には同じモノであるとウパニシャド哲学は考えます。
これを仏教書の漢訳では「梵我一如(ぼんがいちにょ)」と言います。

ここで又、問題です!
誰もが自分の中に「我(が)」を持っていますが、
人は、いろいろな物質や欲望によって心が曇っているから、簡単には自覚することは出来ません。

でも、何らかの修行によって、(この何らかの修行が重要になる)、
心の曇りを取り払い、自分の中に「我(が)」を見つけたら、
それは「梵(ぼん)」と同じなわけですから、二つは一体化します。

一体であることを「人間の私」が理解する。
その瞬間に「人間の私」は「宇宙」と一体となる。
一体となることは、自分が消えるということです。

強引な論法に思えますが、とりあえず、ここまでを理解してください!
これが輪廻の里のキーポイントです。

もっと強引に話を進めます

自分が消える、ということは、前述した私の行為である「業」がなくなるということです。
自分が宇宙と一つになるのですから、私の行為というのも消えるのです。

前述したように、輪廻転生の原因は「業」ですから、
当然です!
私が消えることで、私の持っている「業」が消えますから、輪廻するものが無くなる。
これが解脱ということです。究極目標です。

この理論に基づいて、多くの修行者が「梵我一如」の実現のために修行生活をしているのです。
どうすれば、心の曇りを取り払い、自分の中に「我(が)」を見つけたら良いのかと、
色々な人が色々な方法を唱えるのです。

仏教でも修行僧は、この「梵我一如」の実現のために修行生活をしているのです。
もっとも釈迦は、これを言ってはいません。
釈迦は次にでてくる妙法連華経で述べています。
仏教の経典は宗派に共通です。
釈迦の教えですから、特許や専売権、などはありません。

仏教の一派である、密教の修行僧がやっているのです。
中国で唐の時代は密教寺院が長安の都で軒を連ねていたとありますので、
唐の都に行った、最澄や空海はこの密教を日本にもたらしたのです。
最澄は禅宗ももたらします。

では仏教の話になります
仏教では、どうすれば、心の曇りを取り払い、自分の中に「我(が)」を見つけたら良いと
その方法を教えるのでしょうか?

孔子とだいたい同じ年代である、
ゴータマ・シッダールタ(釈迦)の説いた仏教とはどんなものだったか。
妙法連華経に詳しく書かれていますが
四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)です。

四諦(したい catvaari aaryasatyaani)とは、
仏教用語で、釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、
現実の様相とそれを解決する方法論をまとめた苦集滅道の4つをいいます。四聖諦ともいいます。
聖諦とは「神聖なる真理」という意味であり、
よって四諦とは「4つの真理」の意味で、4つの真理とはそれぞれ、
1.人が生きるということは苦であるという真理 (ウパニシャドの基本です。)
2.その苦の原因は人間の執着にあるという真理 (苦しみには原因があります)
3.この苦を滅した境地が悟りであるという真理 (原因を取り除けば苦しみも消えます)
4.その悟りに到達する方法が仏道であるという真理(ここでは 簡単に原因を取り除く方法は
 八正道であります としておきます)
であり、これを順に苦諦・集諦・滅諦・道諦と呼び、
前二者は流転の因果を示し、後二者は悟りの因果を示します。

その八正道とは?
それは字の如く、八つの正しい道です。
八正道(はっしょうどう)は、釈迦が最初の説法において説いたとされ、涅槃に至る修行の基本となります。
1.正見(正しく見る)
2.正思惟(正しく考える)
3.正語(正しく話す)
4.正業(正しく行動する)
5.正命(正しく生活する)
6.正精進(正しく努力する)
7.正念(正しく思いめぐらす)
8.正定(正しい心を置く)

正しいと思うことを八つ言えば大体合っています!但し、実践しなければなりません。
釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるもので、
私たちの仏教の理解も、書物による知識ではなく、常に現実における実践を中心としなくてはなりません。

これが仏教の特徴で、仏陀は修行者などのような、死ぬほどの苦行を否定します。
修行者のように、苦行するのが当たり前の中で、
仏陀は苦行を否定して、理論によって悟る道を示しました。

インドの宗教に共通ですが、悟りをひらいて解脱できるのは、出家して修行している人だけです。
在家で、普通の暮らしをしている人は決して解脱できません。
中国や日本で信仰されている、在家信者も救われる仏教(大乗仏教)は、まだ この段階では存在しません。

在家の人たちの救いは、修行している僧にお布施をすることです。
自分自身は出家すらも出来ないので、当然のことながら解脱はできませんが、
解脱を目指して修行している人(僧)への布施(金や物品の支援・援助)をすることで、
良い業を積むことは出来ます。
良い業を積めば、今度生まれ変わるときに、
今より少しでも良い生活が出来る所に生まれ変わることができる。
そう考えるのです。
アジアでもタイ国は小乗仏教の国ですので、今でも皆、そう思って、日々の生活で実践しています。

では中国や日本などの大乗仏教ですが、何が違うのでしょうか?
本来の仏教(小乗仏教)は出家して修行しなければ解脱できません。
しかし、すべての人が日常生活を放棄して出家できるわけではないので、
多くの人々は、徳の高いお坊さんの傍(そば)にいたり、寺や僧などの修行者にお布施をしたりして、
良い業を積むことしか有りませんでしたが、
釈迦が死んだ後、在家信者も救われる仏教(大乗仏教)が生まれます。

仏陀が死んだ時、
修行を積んだ弟子たちは、この世の無常であることを知っているから、じっと悲しみに耐えています。
しかし、多くの在家の信者たちは、今の私たちと同じで、仏陀の高い徳を慕っていたので、
当然嘆き悲しみ、亡くなった仏陀に対して執着します。

仏陀のそばにいたい、いきたい、仏陀の遺骨を守りたい、・・・・・と思い、
在家信者たちは火葬した仏陀の遺骨を埋めて、その上に塔を建てます。
この塔を「ストゥーパ」(仏塔、石塔)と言い、仏塔にお参りしては
仏陀を偲ぶような形で、自分たちの、仏陀に対する思いを守りました。

仏陀の信者はインド全域にいたので、どんどん仏塔が建てられ、
その地下には分骨した仏陀の遺骨の一部を埋葬したと伝えられています。
この仏塔は仏教の広がりとともにアジア各地に広がっていきます。

話は変わりますが、
日本では、江戸時代、江戸幕府により、キリスト教を排除のため、すべての国民(庶民)は、
寺の檀家(信者)に帰属させられましたので、
近代国家になって、埋葬方法が、火葬になっても全く抵抗がありませんでした。
今では、全国的に火葬ですので、「ストゥーパ」(仏塔、石塔)と同じように、
自然石でお墓を作り、地下に納骨室をつくり、火葬した骨を壷に入れ納骨室に埋葬するのがほとんどです。

仏陀が死んだ後、
在家信者に共感する修行者や仏教理論家たちがいて、
彼らの中から「大乗仏教」なるものが生まれてきます。
大乗仏教の特徴は、在家信者も解脱できる大きな乗り物があることです。つまり、大乗です。
大乗で在家信者も悟りを得て解脱することができると教えます。

大乗仏教は、歴史上の実在した仏陀以外に、理念としての仏陀の存在を考えるようになります。
それでは、大乗は歴史上の仏陀自身の教えと違うと、異を唱える人が、昔も今もいます。
しかし「仏陀の教えが理論的に発展していったもの」と考えれば良いと考えるのです。
ですから、大乗も仏教です。

出家修行者だけではなく、大乗の教えでは、在家の信者も、「悟りの世界」、に行けますよ!
つまり彼岸(ひがん)に、載せていってくれる大きな乗り物がありますよ。と説いています。

これに対して出家者しか悟ることのできない従来の仏教を、大乗仏教側は傲慢(ごうまん)にも、
小さな乗り物、小乗仏教と言って蔑視します。(小乗仏教は、正しくは上座部仏教といいます)

仏陀が悟りをひらいた時、いったんは誰にも理解できないから、
仏法を説くのはやめようと思ったけれど、考え直して説法を始めますが・・・・・、
そのような仏陀であれば、在家信者を見捨てることもないはずです・・・・と考えたのです。
在家信者も悟りをひらけるまで、教えを説き続けてくれるはずだ、という考えが生まれるのです。

仏陀の教えを法、ダルマといいますが、
そのダルマそのものが仏陀である、と考えます。
宇宙の法則の中に、「永遠の仏陀」が存在している。

その為、大乗では「菩薩」(ぼさつ)というものを考えました。大発明です!
大きな乗り物=菩薩と思っても良いでしょう。
小乗仏教では、仏陀そのものを信仰しますが、
大乗仏教では、仏陀そのものではなく、菩薩を信仰します。

菩薩は悟る力があるのに、在家信者が悟りを開けるまで待ってくれます。
そして、在家信者が悟りを開けた時、
初めて菩薩も悟りを開く、そういう有り難い先生と言うか、
大きな乗り物の運転手が菩薩です。

仏教の系統の密教は、如来を中心に見ますので仏陀を如来の化身だと位置づけています。
菩薩でなく「如来」(にょらい)が登場する密教となるのです。
(阿弥陀如来、大日如来・・・・・)
しかし、密教も単独の宗教ではなく仏教の一派として扱うことが主流です。

菩薩(如来)は現実にいるかもしれないし、しかし理念的、宇宙的な存在?とした菩薩もあるようです。
たくさんの菩薩(如来)が登場し、釈迦がその菩薩(如来)を紹介し、
それぞれ経の中で菩薩(如来)の役割、働き、ご利益なども説いています。

その経の解釈をめぐっても、時代により、いずれも偉い僧ですが、見解も異なってきます。
したがって、大乗仏教は、各人がそれぞれの経を読んで自ら理解し解釈してください。
仏に対する信仰とともに、菩薩に対する信仰も生まれて、色々な菩薩が考え出されました。
ですから同じ大乗の仏教信者でも、言うことが違ってきます。
でも、信ずるものが救われるのです。

ウバニシャドの考えを書きましたが、仏教は、個です、私個人の業です。
夫である私が、僧や寺に布施をたり、人に優しくするなど良い業をして、ご利益があっても、
妻へのご利益はありません。だから、冷たい言い方ですが、
妻も、ご利益が欲しければ、妻、個人として、良い業を行なうことです。
仏教では、八正道です。
人は人です。儒教感では叱られますが、他人の行為など、どうでも良いのです。
自分が正しいことをすれば良いのです。
ですから、非暴力、非破壊、非抵抗です。やさしい心、優しい行為です!

大乗仏教の理論を大成した有名な人は、
南インドの人(2世紀から3世紀)で、ナーガルジュナがいます。
龍樹(りゅうじゅ)と漢訳しています。龍樹菩薩とも呼ばれます。

お経は、本来、仏陀の言葉を弟子たちが伝え、それをまとめた物ですが、
大乗仏教は、仏陀が死んでから成立したので、
仏陀の言葉(教え)ではないと言えば、そういうことになります。

仏陀というのは悟った人という定義ですから、
仏さま(仏陀)=お釈迦さま(釈迦族の王子)=ガウタマ・シッダールタ(王子の名前)でなくても、
悟った人の言葉であれば、それぞれの悟った人の、経があって良い、という理屈になります。
ですから、数え切れないほど、たくさんの「お経」があります。

ならば、悟った人が書けば「お経」として認められるかと言うと、それは認められなく、
インドで書かれていることが条件です。中国で書かれた「お経」も、沢山ありますが、
仏教界ではインドでの原典が無い経は「偽経」といって偽物扱いが一般的です。

大乗仏教の、お経の著者は未だ不明です。おそらく
悟りを開いた、多くの仏教僧たちが、インドのどこかで、たくさんの大乗経を書いたのでしょう。

中国では仏教と儒教が合体して新しく「禅宗」と言う仏教宗派が生まれています。

本物の経であっても、中国で翻訳されるときに、中国の文化(儒学・儒教)で生活する僧が翻訳しますので、
ごく自然に、中国文化である儒学(儒教)や道教などの道思想が入った、
中国独自の「中国仏教」になったのだと思います。


この講義に興味をもった、山本信秀は長島恭平の影響もあり、仏教を人一倍勉強するようになっていた。
また、このことが、長島恭平と山本信秀を結ぶ絆になるのです。



ロンフィ社の社長になっていた長島恭平はが2083(42歳)のある日、
2083(21歳)になる山本信秀は金軍宙の遺言どおりロンフィ社に入社する

長島恭平と山本信秀は金軍宙と野永恭一の遺書とたくさんの資料をみて、
びっくりする。


これが事実であるならば間違いなく、
2083(42歳)になる長島恭平は野永恭一であり、
2083(21歳)になる山本信秀は金軍宙であるのです。

因縁の再会だったのです。


そして山本信秀は長島恭平を支えロンフィ社で働きはじめるのです。

長島恭平は山本信秀に遺書の解明を命じます。
お金はいくらかけても良い。
そして、金軍宙があれほど引きこまれた、仏教を研究するように命じたのです。

20年後、山本信秀は長島恭平に遺書の解明ができたと報告するのです。
長島恭平は、改めて身震いをしました。
そしてとうとう泣きだしたのです。

2103(62歳)になった野永恭一である長島恭平は、
2103(41歳)になった金軍宙である山本信秀はある日、
山本信秀は長島恭平に、遺言の執行を行うことにする。

長島恭平の遺言は、彼が2010年に言った。
「100年たっても争う」
「100年たっても復讐する」の言葉だった。
これは、金軍宙である山本信秀の怨念でもあった。


輪廻の里がわかったのです。
復讐の相手は5人です。
他の関係者は、探せ出せなかったのです。
余りにも調査に金と時間がかかったのです。
長島恭平は金はかけても良いというが、
見切り発車をするしかありません。
時間をかけていると長島恭平の今世が終わってしまうかも知れないのです。
あまりにも恐ろしい輪廻があるのです。
急を要するのです。
こうして、
恐ろしい、遺言の執行が始まります。